闘うブログ!レフティ中尾 社会派!

福祉を主なテーマに書いています。よろしくお願いします。

映画レビュー「月」。私に内在する「植松聖」

原作は辺見庸さんの小説「月」(角川文庫)です。世界に衝撃を与えた、相模原事件の映画化なのです。この事件を忘れるな、風化させてはならないと言うことは正しいのですが、それだけでは済まないとも私は思います。危ないことを言うようですが、私の心にも「植松聖」が存在しているように感じるからです。

この映画の主な登場人物は5人です。小説が書けなくなって苦悩する洋子は「施設」で働くことになります。

その夫、昌平はおそらく洋子より年下で、働くことが苦手(知的障害か精神疾患だと思われる)で、妻を「師匠」と呼んでいます。人形劇を創作しています。

「施設」の職員の陽子は小説家志望です。洋子のファンのようですが、歯に衣着せぬ発言で他人を傷つけることもあります。最後の凄惨なシーンの目撃者となります。

そして「さとくん」。その事件を起こすのですが、元は「施設」の職員です。そして、さとくんの恋人で聾者の祥子。

さとくんは、日頃は好青年です。「施設」の職員として、紙芝居や絵を書いて、入居者たちを喜ばせようとします。雰囲気がスマートで、芸術家肌、博識もあって、仕事に関しては生真面目です。

「月」の小説を読んだときにも思ったことですが「さとくん」とは「私」のこと、あるいは「私」と「さとくん」は、コインのウラオモテではないかと考え込むのです。それくらい共通点が多いのです。真面目に働くが故に他の職員にいじめられることや、恋人が障害を持っていることも「私」そのものなのです。

さとくんが凶行に走った理由は、「月」の映画や小説にも明言されている訳ではありません。だから想像するほか無いのですが、自分自身を肯定することが困難だった故の犯行ではないでしょうか。誰からも自分を評価してもらえない、褒めてはくれない、自分は周りの人よりも頑張っているのに、自分には他の人には無い才能も知識もあるのに。だからもっともっと頑張らないと。

苦悩するさとくんは、国のため、人々のため、「心をもたぬ」障害者のために彼らを殺害します。この動機はもちろん、あまりにも身勝手で、あり得ないことで、許されないことです。そのことを前提とした上ですが、私にもまた「罪」があるのではと考えてしまうのです。

相模原事件の後にも、信じられない事件は次々に発生しています。精神科の入院病棟である滝山病院や神出病院での職員による患者への暴力事件。京アニや大阪のメンタルクリニックでの放火殺人事件。小中学校や高校でのイジメに起因する自殺など。私も含めてですが、悪い意味で皆、事件に慣れてしまっているのではないでしょうか。これらは単に、犯人を裁けば全て解決とはならないのです。私の中、そしてそれぞれの人の中にある「罪」に向き合うこと無くして「救済」はあり得ません。

障害者に限らず、移民・外国人への差別や、ネットでの顔の見えない人への言葉の暴力に、慣れてしまっているのです。だから、私の中には「植松聖」が、皆の中にも「さとくん」が、たぶんいるのです。それを自覚した上でないと、どんな言論も無効だと思うのです。大袈裟かもしれませんが。

この映画のラストシーンで洋子は施設に向かって走り出します。その先のことは描かれていないのですが、いったい何のため、誰のために走ったのでしょうか?「きーちゃん」と呼ばれる、目が見えない、耳も聞こえない、歩けない、ベッドの上から動けない彼女の安否を真っ先に考えたのでしょう。だけどいくら速く走っても「きーちゃん」はもうこの世にはいないのです。施設に残るのは大量の血しぶきと「さとくん」の狂気の思念だけです。

とても情報量の多い映画です。エンドロールのあとは、ぐったりするほどです。こころを激しく揺さぶる映画ですが、「さとくん」の心情の変化が唐突すぎて、最後まで理解が追いつかなかったのは少々残念でした。また、100ページ近い分厚いパンフレットは読み応えがありました。

 #月 

 #相模原事件 

 #植松聖