闘うブログ!レフティ中尾 社会派!

福祉を主なテーマに書いています。よろしくお願いします。

誰からも理解されなくても、私は青葉真司被告の死刑には反対します。

京都アニメーション放火殺人事件。むごい事件であり、青葉真司被告には同情の余地はありません。これを大前提とした上で、私は青葉被告は無罪になるべきだったと強く思うのです。

マスコミの報道では青葉被告の生い立ちや事件を起こした背景はほとんど語られてはいません。京都地裁の裁判を傍聴したわけではないので断言はできないのですが、それらを充分に論議したわけではないようです。

青葉被告は重度の統合失調症です。言うまでもなく、統合失調症の患者のほとんどはおとなしい人たちです。犯罪者予備軍ではありません。だけど、青葉被告の犯行にはその精神疾患が大きな原因になっていることは間違いありません。

犯行時41歳の青葉被告の人生をたどると、彼の苦悩や孤独を理解することは難しいものではありません。非常に辛い人生だったろうと推察できます。精神疾患は家族にも学校の教師にも職場の人たちにも、なかなか理解されません。青葉被告は前科がありますが、その刑務所にて統合失調症と診断されたのです。出所後治療を受けるのですが、それが上手くいかなかったのでしょう。そのときの医療従事者は、彼には他害の恐れがあることを記録しています。真っ当な精神科に入院して治療を受けさせれば、凄惨な事件は無かった可能性はあったでしょう。

繰り返しますが、彼に同情しているのではありません。死刑囚にも人権があるとかを言うのでもありません。そうではなく、今からでも治療をする必要があると言いたいのです。残念ながら、精神科にはまともではない病院やクリニックもあります。医療従事者による暴行があった滝山病院や神出病院はまだ存在しています。どんな患者も、一度入院すれば二度と退院できないと言われています。

統合失調症には完治はほぼありません。しかし時間をかければ、自分自身をコントロールできるようになることは不可能ではありません。その治療は手厚くして然るべきなのです。

精神科鑑定医は、彼の疾患への理解が本当にあったのか疑問です。事件時もその前にも、心神喪失心神耗弱では無かったという証拠などあるわけがありません。死刑になる可能性が高い裁判では、精神鑑定はもっと慎重になる必要があります。数十分程度診察しただけで鑑定を下す医師もいるそうです。もっと日にちをかけずに判断することは適切とは思えません。

私は死刑制度には反対の立場です。主要国では死刑は日本やアメリカ、中国、インドくらいしか残っていません。また、アメリカでは死刑執行にはマスコミの記者が必ず立ち入って取材をします。日本では何故密室で死刑執行をされるのかは、私には理解ができません。死刑という制度がいびつなものだから、その執行を不可視化しているのです。

彼には残りの人生を空調の効いた閉鎖病棟で過ごして欲しいのです。自身の大やけどの治療にあたってくれた医療従事者たちの「優しさ」に触れたことには感謝しているという話がありました。たぶん、人の優しさに触れる機会がほとんど無かった人生だったのです。何度も言いますが同情ではなくて、単に治療を受ける権利はあるという話です。どうしても死刑を免れないのなら、せめてその病の辛さを軽減してからでもいいと思うのです。遺族の感情を無視するのかと言われれば、何も反論はできないのですが。

 #京アニ放火殺人事件

 #死刑制度

 #青葉真司

 

 

 

精神障害者差別は無くならない。岩永直子さんのインタビュー記事に怒る

これを言っても、大半の方がピンとこないでしょうが、性差別や民族差別が解消されるであろう未来でも、精神障害者差別は無くならないと断言できます。さまざまな理由はあるのでしょうが、一番の原因は、彼らを支えるはずの医師が、精神障害者を蔑視していることに尽きるのではないでしょうか。

多くの医師や医療従事者は彼らを大人扱いしません。彼らの社会的な受け皿となる、就労支援事業所(作業所)や精神科デイケアにおいて、彼らは子ども扱いをされます。悪気があるわけではないのでしょうが、スタッフはそうすることが彼らのためだと信じ込んでいるのです。

そんなことを考えたのは、Twitter(X)において、医療ジャーナリスト岩永直子さん(著作「言葉はいのちを救えるか」で注目されている)による医師の忽那賢志さんへのインタビューを読んだからです。33万viewを超えたそのツイートをたまたま拾ったのですが、精神障害者である私の神経は、ぶん殴られたかのようにダメージを負ったのです。

そのインタビューは、大したことは言ってはいません。忽那氏はコロナにまつわる医療情報を発信しているのですが、それを気に食わない人が、彼をバッシングしているらしいのです。そして、岩永氏はこうまとめます。

「誹謗中傷する人で多いのが、生活保護を受けていたり、精神障害があったり、引きこもりで働いていなかったり、いわゆる『社会的弱者』と呼ばれる人だということがやるせない。匿名で誰かを攻撃しても、自分が救われるわけではないのに」

精神障害者やひきこもりの人たちは、大人しすぎるほど大人しいものです。ただし、自分たちが攻撃されたり、偏見の目で見られたりすれば、そりゃ怒ることはあります。それは健常者もまた同じことです。

コロナワクチンについて発信をした忽那氏は、過剰な非難を受けているようです。中には「殺人予告」をする人もいたようです。そこで50名ほどに刑事告訴民事訴訟を起こそうとしたのです。

私はその事情がよくわかりません。まさか、50人全員が殺人予告をしたわけではないでしょう。住所と氏名を開示請求して、謝罪と損害賠償を請求して、のこりの10人ほどを裁判で争うために弁護士を立てたらしいのです。

忽那氏は、自らのポケットマネーである400万円で裁判費用を作ったそうです。それだけの資産があれば何も怖くないと思うのですが。

忽那氏はこう言います。「『私は精神障害者なので、生活保護なので、引きこもりだから賠償は払えません』という人が多いです」

精神障害者生活保護受給者、引きこもりの方ばかりが、そうした殺人予告や誹謗中傷をしたのでしょうか。仮にそうであれば、彼らの神経を逆撫でするような発言をしたのではと私は疑うのです。他のコロナワクチンを推奨する医師たちが、そうした攻撃を受けたという話はあっても、そんなマイノリティから被害を受けたという話は聞きません。

医師や医療従事者は、確かに精神障害者生活保護受給者を嫌っています。生活保護の人を「ナマポ」と揶揄をするのは定着していますが、精神障害者を彼らは「プシコ」と呼んでいます。プシコとは、本来は精神科のことをさす隠語なのですが、今では精神科の患者を蔑視する言葉なのです。「さっきの患者はプシコだね」という風に使われますが、これはあきらかに患者をバカにした言葉です。

話を戻して、忽那氏がコロナワクチン否定派と闘うのはその立場からすれば当然のことです。ただし、被差別者である彼らをバッシングすることは適切とは言えません。精神障害者のところを「女性」「トランスジェンダー」「在日」「〇〇人」と置きかえれば大問題になるでしょう。

私は忽那氏のその言葉が偏見によるものではと疑っています。誇張があると思います。彼らがコミュニケーションがやや難しいことと、医療が現物支給であることが気に入らないという理屈も少しはわかります。だからと言って、そうした社会的弱者や被差別者を、犯罪者予備軍扱いをすることは慎重になるべきです。ラベリングは社会の分断を招くだけです。

私はコロナワクチンについては否定的ではないのですが、ワクチンに嫌悪する人たちには、医師が丁寧に説明する必要があります。反ワクチン派を「陰謀論者」扱いにすることが、医師の立場からして正しいこととも思えないのです。いずれにせよ、忽那氏が受けた行為や言葉は不適切であっても、私自身もまた彼から言葉の暴力を受けたことも確かなのです。

 #岩永直子 

 #忽那賢志 

 

 

 

 

 

 

2024年1月1日。石川県能登地震で私たちができること

まずはこの震災により、お亡くなりになられた方にお悔やみを申し上げます。また、避難されている方々の安全と健康を心から願います。

Twitter(X)や報道ではさまざまな情報、報道が錯綜しており、あまり振り回されないようにしたいと思います。その上で、災害の直接の被害者ではない私たちがどうすべきなのか、考えていきます。

まずは、テレビなどの被災地の映像を必要以上に見ないことです。特に子どもたちがいるのなら、テレビは消すべきです。人間のメンタルは傷つきやすいものですから。

言葉は悪いですが「部外者」が被災者にできることはあまりありません。余力のある人は被災地でボランティアをしたり、募金をしたりするのは良いのですが、それも即座にはできません。

普段の日常のようにご飯を食べて、よく寝て、娯楽も楽しむということは不謹慎ではありません。お正月休み明けの仕事にそなえることも、一つの支援です。

そして、XなどのSNSではニセ情報、デマもあるでしょう。救助を求める発信をすることは良いのですが、必要以上に拡散させることは、逆に現地の救助活動が妨げられて、命に関わることもあるのです。

また、被災地で活動をする人たちの「働きすぎ」も気がかりです。根性だけでは仕事はできません。きちんと栄養と休息、睡眠をとることも重要です。

そして、震災に遭ったときにどう行動するのか、日頃の備えはどうするのか、ということについて考えることも必要かもしれません。これはまあ、後からでもできることです。私は自宅に非常食と飲料水は大量にストックしていて、外出時も可能な限りペットボトルの水やモバイルバッテリーを持ち歩いています。

繰り返しになりますが、直接の被災者でなくても、自分や家族のメンタルケアは忘れないようにしましょう。トラウマを抱え込むと非常につらい思いをします。自分自身を守ることが一番大事なのです。

 #石川県能登地震 

 

 

焚書に抗議する。KADOKAWAの「あの子もトランスジェンダーになったSNSで伝染する性転換ブームの悲劇」を読ませろ!!

著名人も含めた、この本の出版に抗議した「少数」の人たちは勝ち誇っているようです。しかし私は「焚書」に関わった人たちに、非常に大きな憎しみを持っています。何故なら1冊の本を読むことが叶わなくなったのですから。私にとっては暴力を振るわれたのと同じです。

有名なハイネの言葉「焚書は序章に過ぎない。書物を焼く者はやがて人も焼くようになる」は、その後のナチスの学生たちが、自分らに都合の悪い書物を焼いたことを予見したのです。時代も変わった現代の日本でも焚書という「序章」が現れたのです。まさに小説「華氏451度」の前触れです。

この本の出版を断念したKADOKAWAには、今なお抗議がされています。その上で「焚書というのは国家権力が上からするもので、下から抗議をしたのは焚書とは言わない。出版を停止したのはKADOKAWAの判断であり、私には責任は無い」という同じことを複数の作家が述べています。これは大きな誤りです。焚書とは「下から」するものですよ。ファシズムも同じです。大衆が率先して書物を燃やして、やがて人も焼くのです。

まだ読んではいない本について語る資格は私にはありません。ただ、原著を読まれた方のツイートを読む限り、トランスの人を差別したりする本ではないようです。

主にトランスをするために、思春期ブロッカーを用いたり、性転換手術をしたが、もう元に戻れずに悲しんでいる子どもたちやその親にインタビューをしているノンフィクションです。確かに内容としては、トランス当事者にとって不愉快になるかも、という懸念はあります。だけど、出版を中止に追い込むことが必要な本ではありません。

私はもっと問題がありそうな本を読んでいます。例えば精神科医の原田隆之さんの「痴漢外来」。これは痴漢の常習者を治療するノンフィクションであり、分かりやすい精神医学の本です。そして弁護士である大森顕さんと山本衛さんたちの「痴漢を弁護する理由」は小説です。

これらなど、タイトルだけを見て「とんでもない本だ。痴漢を擁護するのか。女性の敵だ」という反応は間違いなくあります。それでも普通に出版されていますし、この本の著者や出版社が批判に晒されて発禁となったわけではありません。そして私にとって、2冊とも出会えて良かった本なのです。

買ったばかりの岩波の「世界」2024年1月号に小説家の桐野夏生さんのインタビュー記事があります。タイトルは「反社会的で、善なるもの。いま小説を書くということ」です。タイトルだけでニヤニヤしてしまいます。私は「反社会的」というワードが好きなのです。

このインタビューはもちろん、焚書騒ぎの前のことですが、桐野さんはそれの予感をしているようにも思えるのです。ただし、桐野さんは小説のことを述べていて、今回大騒動となったのはノンフィクションだから、やや立ち位置が異なるところには注意が必要です。しかし、そう大きくは変わりないとも思います。

アメリカでは『正義中毒』とでもいうのでしょうか、過去の著作物に対して性差別や人種差別があるといった理由で図書館に置かなくなるとか、部分的な書き換えが行われる場合もあると聞きます」

「(コロナ禍で)戦時中の隣組を思わせるような雰囲気がありました。…日本人の本質を見た気がしました」

「レイプシーンを描くことでレイプを肯定している、と非難されることもあるでしょう」

「(検閲を前にして)まず作家の勇気と、出版社の勇気でしょう。…私たちが強くならなきゃいけないと思います」

「仮に言葉をつかって自分の悪意や差別意識、そういう悪を作品として表現しようと思っても絶対に淘汰されるから、いいものしか残っていかないと思うんです」

引用が長すぎましたが説明は不要でしょう。桐野さんは現代の検閲を「大衆的検閲」と名付けています。下からの検閲と自ずからのファシズムです。

この焚書された本には精神科医岩波明さんが監修しています。推測ですが、議論が分かれそうな箇所には注釈が入っているでしょう。性的な当事者にも、充分に配慮されていた可能性もあります。何故焚書騒ぎが始まったのかは不明ですが、作品ではなくてKADOKAWAに恨みがある作家が中心にいたのではと疑っています。いずれにせよ本当に残念なことです。怒りもまだ収まらないのです。

 

 #焚書 

 #あの子もトランスジェンダーになった 

 

 

斎藤幸平さんに問う②否定の否定を理解する

斎藤幸平さんの「マルクス解体」。その本はボリュームもさることながら、非常に難解な箇所も多くて、まあ格闘する甲斐があるのです。それでもマルクス本としては、まだ平易なほうかもしれません。今回は少々気になる表現があるので、それを読み解きます。

マルクス用語の一つで、重要なものに「否定の否定」があります。一種の弁証法ですが、マルクスはそれを政治、経済、人類史の法則として理解をしています。また、この法則は自然科学にも当てはめることができるのです。

例えば、糸電話で何故会話ができるのかを説明するのに否定の否定は役立ちます。人間の声はなぜ聞こえるのか。それは空気の振動で伝わるためです。それゆえに遠く離れている場所には音が拡散されて聞こえなくなります。

そこで糸電話を使います。その片方の紙コップに声を出すと、その空気の振動は糸の振動に変わります。糸はもう片方の紙コップでまた空気の振動へと変換されます。糸は空気と違って固体だから、音があまり拡散しないのです。だからある程度離れたところにまで声が届きます

空気の振動→糸の振動→空気の振動

これこそ「否定の否定」です。携帯電話で通話が出来ることや、レコードやCD、ラジオなどで音楽が聴けることも否定の否定で説明ができるのです。

ところが、斎藤さんのおっしゃる否定の否定は何だか明確ではないようです。「マルクス解体」の第七章第三節から引用します。

「資本の本源的蓄積は、第一の否定として、みずからの労働に基礎を置いた個人的所有を解体する。それに対して、コミュニズムは『否定の否定』を目指し、これを通じて『収奪者は収奪され』、人間と自然の本源的統一を再建しようとする」

つまり、斎藤さんは「第一の否定」と「否定の否定」を対立させているのです。そうではなくて「否定の否定」には「第一の否定」が内在されているはずです。つまり、第一の否定とは紙コップの糸の部分で、第二の否定はもう一つの紙コップ。その全体像こそ否定の否定です。斎藤さんのそれは単なる否定です。

人間社会の歴史は必然的に変革されていく、というのがマルクス主義の基礎です。理想的社会(斎藤さんの脱成長コミュニズム)が人類を滅亡から救う唯一の道で、それに従おうと啓蒙するのは、マルクスが批判した「空想的社会主義」と変わらないと思うのです。もちろん、何が何でもマルクスが正しいと言いたいのではありません。ただ、斎藤さんのマルクス解釈には分かりづらい箇所が幾つかあるな、と思うのです。

 #斎藤幸平 

 #マルクス解体 

 #否定の否定 

 

 

 

 

斎藤幸平さんに問う。①「マルクス解体」を解体できるのか

斎藤幸平さんの「マルクス解体 プロメテウスの夢とその先」を読み進めています。400ページに達するこの本は、元は英国で出版したものだそうです。斎藤さんはマルクス学者として名を馳せていて「人新世の『資本論』」は大ベストセラーになっています。

斎藤さんの唱える思想をひとことで言えば、マルクス主義エコロジー思想の融合です。思うに、その思想は新しいモノとは言えません。1970年代から欧州を中心に誕生した「緑の党」ブームがありましたが、その思想には少なからず、マルクス主義の影響があったのです。日本にも1980年代に緑の党が複数誕生しましたが、いずれも数年で消滅したのです。何故なら都会に住みながらエコロジーを唱えても、説得力が無いのです。

しかし、欧州では今でも緑の党は支持されていて、連立政権に参加している党もあります。斎藤さんの思想が欧州でも席巻している理由がよく分かります。

さて、私は斎藤さんの本の熱心な読者であり、コミュニズムの信奉者でもありますが、その「脱成長コミュニズム」を未だに消化出来ずにいます。まあ、私の理解力が乏しいことが主な原因ですが、それに加えて「脱成長」はすでに実現しているのではないか、あるいは完了されているのではと思うのです。もはや「成長」なんて、やりたくとも不可能なモノです。この地上は、極限まで資本が集中して、格差が拡がっているのですから。「脱資本主義」と言うのなら話は分かりますけれど。

2021年3月7日の毎日新聞で、斎藤さんの連載記事が掲載されています。「資本主義の先へ レッツ脱プラ生活 『不便』と向き合う体験」というタイトルです。生活の中のプラスチックをできるだけ減らすことを実践するというモノです。野菜や魚や肉などのプラスチックやビニールの包装のあるものを一切買わずに生活をするのです。但し、15日間の限定です。正直、酷くつまらない記事でした。

どのような内容かは、安易に想像できるでしょうから省きますが、ひとつ取り上げると、マイカーを20分運転をして、お菓子工場へ行って量り売りをして貰うとか、どこがエコロジーなのか理解できません。(そのお菓子工場からは結局量り売りを断られています)。「人新世の資本論」の冒頭で「SDGsは大衆のアヘン」と言い切ったお人は別人だったのでしょうか?

また、先日のテレビの番組にて斎藤さんはこう発言しています。番組は私は見損ねたのですが、幾人かの方がTwitter(X)で書き起こしています。引用します。

「……国民の皆さんには来年の6月に4万円減税するけれど、その一方で自分の給料を4000万円貰っている岸田さんが自分の給料を更に40万円上げますよと言ったら、やっぱり納得感としてちょっと難しいと思うのですよ。

その上で、れいわは一律給付を季節ごとにやるとか、軽減税率を引き下げるべきとか社会保障料を引き下げるとか、即効性があることを求めている中で(岸田総理が)自分の給料だけは上げると言うのは、ここは問題です」

まず事実として、岸田さんは年収の3分の1にあたる1218万円を国庫へ返納すると約束をしたばかりです。また、2021年のコロナ禍でも給与の一部を返納しています。

斎藤さんがれいわ新選組を評価しているのは知りませんでした。れいわは確かに消費税の廃止を訴えています。疑問があるのですが、消費税を廃止すると、そのぶん商品が値下げされるという保障はあるのでしょうか。つまり、税込み110円の商品は間違いなく100円になるのでしょうか。価格を決めるのはお店ですから、一時的に値下げをすることはあっても、それは継続されるとは限りません。また、消費税廃止がインフレや円安の要因となり、さらに低所得者の生活が苦しくなる可能性すらあります。

もちろん、消費税減税や廃止がきっかけとなり、景気が上向きになる可能性もゼロではありません。ですが、運良くそうなったとしても、低所得者が報われることにはなりづらいでしょう。これなら消費税を回収した上で、低所得者にそれを還付する方が確実です。あるいは賃上げを求めることこそ最も大事なはずです。

何故斎藤さんがこうした大衆受けしそうなことをおっしゃるのか理解できません。斎藤さんは政治家ではなく学者なのだから、人気取りは不要なはずです。正直ガッカリしています。

今回は前置きだけでしたが、「マルクス解体」を読み進めて、それと格闘していく予定です。私は学者ではなく一読者です。しかしそのタイトルからは非常に危険な匂いがします。マルクスの再評価のきっかけを作った斎藤さんが、どうマルクスを「解体」するのかを考えると、少々身震いするのです。

 #斎藤幸平 

 #マルクス解体 

 

 

 

 

 

 

 

 

「働いたら負け」なのか?生活保護の知られざる実態に迫る

何を考えているのやら、生活保護受給者や年金生活の高齢者や障害者たちを1か所のシェルターや施設にて、集団生活をさせろというツイートが相変わらず多いのです。例えば、これらのツイートです。

「そもそも今の生活保護が異常。数百人集団生活、テレビはプロジェクターで数百人に1個、風呂3日に1回、シャワーが流れている通路を歩くだけ、空調はセントラル、食事は炊き出し、スマホ無し、服は捨てたものが正しい生活保護。絶対になりたくない、に位置付けないと受けたい人増える」

「どこか収容人数少ない刑務所を改装して生活保護の人を集団生活させ、能力・性質・疫病によってランク分けして支給する物や金を分けた方がいい」

生活保護なんて害悪すぎる。刑務所的な強制収容施設に全員まとめてぶち込んで集団生活させろ」

生活保護は底なし沼で抜け出す意欲を失っている。生活保護から抜け出したいと思われるように集団生活をさせるとか、何らかのボランティア活動や強制労働を強いても仕方ないと思うのよ」

「今の年金制度は破綻するの分かっているから『年金支給止めて集団生活します。そのかわり国が一生面倒見ます』としてくれないかな。集団生活は、できれば個室老人ホームみたいなのがありがたいです」

「限界の生活保護もしくは僅かな年金で暮らす老人たちが、山奥の過疎地帯でネコを飼って集団生活をする。良いんじゃないでしょうか」

集団生活の方がコストがかかるとか、感染症のリスクが高まるとか、そういうことを度外視しても、彼らの主張の乱暴さが分かります。貧困者、高齢者、障害者を隔離生活させろというのは、一昔前、レストランや交通機関、学校などで黒人を隔離させた政策とほぼ同じです。アパルトヘイトじゃあるまいし。

いくらなんでも、こんなことは日本では実現しないと、楽観することはできません。すでに外国人や障害者が集団生活を強いられている事実があります。

ご存知の方もいらっしゃるでしょうが、精神科病院の入院病棟の大半はへき地にあります。近隣にスーパーもコンビニもバス停すらありません。シャトルバスかマイカー・タクシーでしか訪問できないのです。

それでも、精神科を退院したら自由になるのでしょうか?そうとも限りません。退院した患者の中には家族がいない、あるいは何らかの事情で家族と住めない人はグループホームで「集団生活」をさせられます。それもまたへき地にあって、買い物も外出もままなりません。その住人の多くは生活保護を利用していますが、金銭は管理されて、自由には使えない場合が多いのです。(金銭管理が難しい人も中にはいるのでしょうが)

もちろん、真っ当な精神科病院の方が多数です。しかし、東京の滝山病院や兵庫県の神出病院のように、患者に暴力を振るうスタッフのいる入院病棟も存在しています。これらの病院の内実は暴露されているのにもかかわらず、今も病院は存在して、入院患者もいるのです。

また、生活保護受給者は恵まれているのでしょうか?保護費を貰いすぎているのでしょうか?単身者だと東京23区で生活扶助が約7万円、住宅扶助が最大で5万3千円です。単身者は生活保護受給者の大半です。

そして、いまだによく引用されるのが、10年前の朝日新聞の記事です。母1人、小学生2人の世帯の生活保護費が計算されていますが、ずいぶんと誤解を招いています。

生活扶助219580円

住宅扶助54000円

教育扶助18000円

計約29万円

働いている世帯よりも多く貰っているのはおかしい、というのですが、実際にはいくら貰っているのか推定します。大雑把な数字です。

生活扶助130000円

住宅扶助54000円(実費)

児童養育加算20000円 (1人1万円)

計20万4000円

それに加えて、母親がパートなどで働いていたり、家族の誰かが障害者であれば、金額は増えます。子どもたちも高校生になればバイトをして、進学のための貯蓄ができます。そうだとしても、29万円というのはあり得ないと思われます。

そもそも、母子世帯になった経緯は不明ですが、仮に別れた父親が健在であれば、養育費を受け取る権利があります。その場合は、生活保護を受ける必要が無くなるか、生活保護費を減らすことができます。また、小学生の2人はいずれ就職をするだろうから、将来生活保護を母子共に抜けることができます。つまり、この生活保護は、意味のあるモノです。生活保護費をこれ以上減らすと、子どもたちの就職にも悪影響を及ぼすでしょう。

誤解があるのですが、生活保護などの福祉制度は、お上からのお恵みではないのです。誰もが社会的弱者になる可能性があり、その社会で生きる全ての人と社会全体を守るための負担です。言い換えれば、福祉とは一部の弱者を救済するものではなく、金持ちも貧乏人も何らかの形で恩恵を受けることです。ひとことで言えば「連帯」です。

誰が言い出したのかは不明ですが「働いた人が負け」というのは正しくないのです。生活保護受給者も、働ける人は働いていますから。作業所で工賃(時給)150円前後で。

もう一つ、実は生活保護受給者の多くは「満額」を貰っていないのです。何故なら高齢者や障害者は年金を受給しているからです。単身者で生活保護費(最低生活費)が12万円として、年金を7万円受け取っていれば、実質生活保護費は5万円です。だから生活保護費が財政を圧迫しているというのも疑わしいのです。

生活保護費は2013年に大幅に下げられています。それが憲法違反ではないかと全国で裁判をしています。これを「裁判やデモをする元気があるなら働けよ」との批判はあります。裁判を起こしている人たちは、自分の懐を増やすことのみで闘っているのではなく、大勢の受給者たちの代表として訴えているのです。生活保護について正しい理解をする必要があり、最低生活費は賃金などにも連動していることも頭に入れて置きたいですね。

 #生活保護 

 #働いたら負け