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2021年8月15日に考える。神風特攻隊とは何だったのか。

先の大戦の悲惨さ、愚かさを考えるには「神風特攻隊」について語らないではいられません。百田尚樹の小説「永遠の0」でも「神風」は描かれています。

この小説の読者の評価を知るため、Amazonレビューをいくつか引用します。

「国のために命を捧げていた人の存在を絶対に忘れてはいけない。多くの犠牲があって今の平和な社会が築かれている」

「誰よりも生きたかった人が他人のために命を捨てる」

「戦争という悲劇、狂気渦巻く世界の中で、必死に己の生き様を見出そうとする人々の葛藤を描いている」

「我々はこうした悲劇の中で殉じていった方々に対しては素直な心で哀悼の意を捧げ手を合わせたい」

概ね高評価のようです。私はここで「永遠の0」を戦争賛美の小説だと一蹴するのではなくて、史実として「神風」とは何だったのか、それは本当に意味のあるものだったのかを検証したいのです。

知られているように、太平洋戦争の主役は航空母艦と航空機です。実際、日本海軍の保有した戦艦12隻はほとんど戦果を挙げていません。

日米開戦の舞台となった真珠湾では、日本海軍の艦載機による爆撃で米海軍の軍艦が攻撃されたのです。

その後、物量に恵まれた米軍は反攻し、1942年6月にミッドウェー海戦日本海軍の航空母艦を4隻沈めます。

こうして日本軍はかなり劣勢となったのですが、ジリジリと消耗戦を続けます。

その2年後1944年6月、サイパンで戦いは繰り広げられ、7月に日本軍は全滅します。こうしてマリアナ諸島は米軍に制圧されます。

この時点で西太平洋の制海権、制空権はアメリカのものになります。つまり、マリアナ諸島からB29が本土へ爆撃がされるのです。喉元にナイフの状態です。

この段階で勝敗の決着はついています。本土の非戦闘員が危険に晒されていて、反撃できる戦力もありません。そうした情勢で「神風」による体当たり攻撃が始まるのです。

前置きが長くなりました。まず、「神風」は戦局が挽回不能となったときに始まったものです。「御国のために命を捧げる」というならば勝たなければ意味はありません。こう書くと怒られるでしょうが「犬死に」としか私には思えないのです。

次に、実際「神風」による米軍の被害は軽微です。主目標である正規空母は一隻も沈まず、護衛空母(商船を改装した空母。当然防御は低い)が3隻、駆逐艦14隻、その他の小型船37隻が沈んだのみです。つまり。装甲の厚い空母には通用しなかったのです。

本来の意味で「御国のために死ぬ」のであれば、この無益な戦いを止めることに命をかけるべきです。「神風」が米軍を攻撃している間も、本土はナパーム弾によって空襲を受けています。戦うことよりも、敗北を認めることの方が勇気がいるものです。

そして、敗北を受けいれられなかった日本は、2発の原子爆弾を広島と長崎に落とされます。アメリカが、非戦闘員が住む町に原爆を落としたことは戦争犯罪だとは思います。

私は、戦争を小説や映画で描かれることはいいことだと思います。ただし、史実をねじ曲げて描くことには注意が必要です。どのような形であれ「神風」を好意的に描くのは問題があります。仮に、百田尚樹が戦争を美化する意図がなかったとしても、「永遠の0」は平凡な作品です。悲惨で愚かな戦争の極めつけが「神風」ですから。

 

#終戦の日 #神風特攻隊 #永遠の0