偶然なのか、意図的になのか、この日に秋葉原通り魔事件の加藤死刑囚の死刑執行がされました。また、先日はミャンマーの反体制活動家4人の死刑も執行されました。憂鬱な気分になります。
やまゆり園殺傷事件の植松死刑囚も近々刑が執行されるでしょう。彼の犯した罪の大きさや残虐さは、もちろん認めるのですが、改めて死刑制度に反対する意志を表明したいのです。
死刑とは国家による殺人です。それも密室の中での刑です。アメリカの死刑執行には必ずマスメディアが取材をしています。「その瞬間」にも記者が立ち会うのです。日本では非公開なので、何があっても闇の中です。
話を戻して、植松死刑囚を異常者だとかナチストだとか切り捨てるのは容易いのです。しかし、どこかで私のなかにも「植松聖」が存在しているのでは、と思うのです。私が植松になった可能性は本当にゼロなのか。植松を叩くメディアや学者、そして国民一人ひとりが障害者を殺傷した可能性はゼロだと言い切れるのか。それは誰にも分からないでしょう。
どんな命も尊いと断言する人すら、加藤死刑囚や植松死刑囚の死刑には反対をしないのです。そして、本日の加藤死刑囚の刑執行に反対する著名人はほとんどいないのです。
いや、お一人、仁藤夢乃さん(家出などで居場所のない女子を支援する活動家)がTwitterで「死刑反対」を述べていました。とても勇気のいることです。もちろん、私も「死刑反対」だとリプライしました。仁藤さんは、犯罪を生み出すのは個人ではなく社会だと言います。そして、死刑制度は社会を変えるのに機能せず、人権を尊重しない社会を強化すると言い切ります。その通りですし、死刑制度が犯罪の抑止力にはならないと私は考えます。
何の事件かは忘れたのですが、死刑囚とその遺族の方が手紙をやりとりして、その死刑囚が絵を描いて、それの売り上げを遺族に送るようになったのです。遺族も死刑執行に反対をするようになるのですが、死刑は予定通りに執行されたのです。
植松の犯した罪は消えるはずもなく、やまゆり園の事件を繰り返してはならないのは大前提です。その上で死刑制度について、また、犯罪の抑止について考えたいのですが、日本独特とも言える犯罪者への極度の憎しみを越えるのはまだまだ難題なのです。
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#死刑制度反対