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河瀨直美さん(映画監督)の「ロシア発言」は正しいのか

河瀨直美さんの東京大学入学式の祝辞が物議を醸しています。ロシアの「悪」を擁護しているのでは、という見解が大半です。ひろゆきさんは、「ロシアから金を貰っているか、頭が悪いのかどちらですか?」という皮肉をツイートしました。ロシアから金を貰うはずもなく、頭が悪いわけでも無いと思うのですが、まずはその祝辞の問題箇所を引用します。少し長いです。

「管長さんが蔵王堂を去る間際にそっとつぶやいた言葉を私は逃しませんでした。『僕はこの中であれらの国の名前を言わへんようにしとんや』

金峯山寺には役行者様が鬼を諭して弟子にし、その後も大峰の深い山を共に修行をして歩いた歴史が残っています。節分には『福はうち、鬼もうち』というかけ声で、鬼を外へ追いやらないのです。この考え方を千年以上続けている吉野の深い里の人々の精神性に改めて敬意を抱いています。

管長様にこの言葉の真意を問うた訳ではないので、これは私の感じ方に過ぎないと思って聞いてください。管長さんの言わんとすることは、こういうことではないでしょうか?例えば『ロシア』という国を悪者にするのは簡単である。けれどもその国の正義がウクライナの正義とぶつかり合っているのだとすれば、それを止めるにはどうすればいいのか。なぜこのようなことが起こってしまっているのか。一方的な側からの意見に左右されてものの本質を見誤ってはいないだろうか?誤解を恐れずに言うと『悪』を存在させることで、私は安心していないだろうか?人間は弱い生き物です。だからこそつながりあって、とある国家に属してその中で生かされているともいえます。そうして自分たちの国がどこかの国を侵攻する可能性があるということを自覚しておく必要があるのです。そうすることで、自らの中に自制心を持って、それを拒否することを選択したいと想います。」

真っ当なことを話されているように思います。ロシアを擁護しているのではなくて、善悪とは何かということを管長さんの言葉から考えているのです。私はブレヒトの「亡命者の対話」を思い出しました。「善という言葉には嫌なニュアンスがある」つまり、善人も善行も、ときには鼻持ちならないこともあるのです。「善」には疑ってかかる必要もあるのです。

管長さんの「あれらの国の名前は言わない」はどの国のことなのでしょうか。ロシアとウクライナのことなのか、あるいは、あらゆる国家を指しているのかもしれません。全ての国家は「善」と「正義」の仮面をかぶっていて、安易に善悪の区別はつかないでしょう。あえて言えば、ウクライナに武器弾薬を送ることが正しいのか、ロシアを叩き潰すことが正義なのか、熟考を重ね、議論をする必要があります。もっとも、河瀨さんはそこまで踏み込んだことは言っていません。

私は「福はうち、鬼もうち」のかけ声を知っています。鬼とはつまり、「四苦」のことで「生、老人、病、死」とも付き合うのが人生だということです。老いや病いや死も受け入れるのです。そして、鬼とは単に災厄をもたらすものとも限らないのです。鬼もまた、ときには救済する必要もあるのです。

「悪を存在させることで安心していないか」「とある国家に属してその中で生かされている」「自分たちの国が他の国を侵攻する可能性を自覚する」という言葉には、ロシアの擁護とか、戦争を正当化することとは真逆のことを述べているのが分かります。つまり、「ロシアが悪い」「ウクライナは正義」として、ウクライナの国旗やウクライナカラーのライトアップで酔いしれて、おまけに募金をすることで、自分は安心できるのです。そうすると、肝心な自分たちのことや、この国のことが疎かになります。そして、この国も気が付いたら戦争をするかもしれなくて、その時にどう選択し、どう行動をするのかが若者たちに求められているのです。河瀨さんの言葉に触れた学生たちには、とてつもなく重い課題が与えられたのです。この祝辞に批判するのはまだしも、単にケチをつけるのは、どうかしているでしょうね。

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