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戦争になれば銃を手にするという「左派」著名人。戦争に酔っている人々と良心的兵役拒否

今日は2022年3月30日です。ウクライナ戦争もようやく下火になり、これからは外交で解決の道を探るのでしょう。遅きに逸する感はありますが、喜ばしいことです。

さて、ウクライナが和平に歩み寄るというこのタイミングで米山隆一衆議院議員がこうツイートしました。全文引用します。

「私はリベラルを自認していて、戦争は可能な限り回避すべきだと思っていますが、しかし同時に自由を愛していて、自由を奪われるなら、銃を手にすることはあると思います。だから自由を守るために銃を手にしている人を責めたり降伏を勧める気にはなりません。自由はそれだけの価値があるものです」

この発言のどこが「リベラル」なのでしょうか。わかりやすくするため、少し文章に手を入れます。

「私は日本人を自認していて、戦争は可能な限り回避すべきだと思っていますが、しかし同時にお国を天皇陛下を愛していて、國體(こくたい)を奪われるなら銃を手にすることはあると思います。だからお国を守るために銃を手にしている人を責めたり降伏を勧める気にはなりません。祖国はそれだけの価値があるものです」

つまり、「左派リベラル」を自認する米山さんと、「右派民族主義」との間には本質的に差異がないのです。守るものが自由なのか、お国なのかの違いなんて、大した差はありません。

私はどちらが正しいとかを述べているのではなくて、左派と右派との境界線がほぼ無くなりつつあることに警鐘を鳴らしたいのです。戦争が始まると、プロパガンダによって必要以上の愛国心を植え付けられます。軍隊では天皇陛下のために犠牲になることを強いられます。上官の命令は絶対です。敵前逃亡は銃殺です。

国会議員の米山さんが銃を持つということは(実際には持たないだろうけれど)国民全てに同じことを強いるということです。ゼレンスキーの「総動員令」と同じです。逃げる人や拒否する人は許されません。ウクライナ戦争の教訓で、ウクライナ軍は武器弾薬はあっても兵士が不足するという事態になり、挙句、女性民間人にまで対戦車ミサイルを持たせたりしました。これのどこが自由を守る戦いなのでしょう。

良心的兵役拒否という言葉があります。思想信条とか宗教上の理由で武器を持たないという主張です。日本が将来、戦争に巻き込まれる可能性があるのならこの基本的人権としての兵役拒否は守られるべきです。また、「良心的」ではなくて、単に戦争をしたくないとか、銃で敵を撃ちたくないという理由でも兵役拒否をしてもいいでしょう。戦いや人殺しを拒否する人の「良心の自由」こそ守るべき自由の一つで、米山さんの守ろうという「自由」なんて、具体的ではなくて、単に言葉に酔っているだけなのです。

 #良心的兵役拒否

 #米山隆一