闘うブログ!レフティ中尾 社会派!

福祉を主なテーマに書いています。よろしくお願いします。

1995年3月20日午前8時、私は霞ケ関にいた(地下鉄サリン事件から26年)

その時、私はタクシードライバーでした。仕事はハードで不規則な生活リズムに慣れずにはいましたが、そこそこ稼げて20代のタクシードライバーが珍しいこともあり、お客さんからは可愛がられていて仕事の不満はそれほどありませんでした。

渋谷区の笹塚付近でお客さんを乗せて首都高速経由で霞ケ関で降ろしました。そして交差点に出ると救急車やパトカーが何台か止まっていて、地下鉄の出入り口の周りに横倒れになっている人が数多くいました。

「何があった?地下で火災?」わからないけれど、ひとまず救急車の後ろに車を止めました。

「手伝えることはありませんか?」救急隊員の一人に声をかけました。東京無線の緑色の制服を着ていたので、私がタクシードライバーだということは分かるでしょう。

「負傷者を聖路加病院まで運んで欲しい」「はい」タクシーで負傷者を運ぶということが正しいことなのかは分かりません。けれど救急車が全然足りていないのは明白でした。また、周囲にはマスコミややじ馬はほとんどいませんでした。まだ、事故発生から時間が経っていないのかと思いました。

どうしたものか。メーターを倒さずに走ると周囲のタクシーから警笛を鳴らされます。それは面倒です。また、4人は乗客ではないので運賃は請求できません。つまり、メーターを倒して運賃は自腹を切る。それで行こう。

私は一言も話をせずに車を走らせました。赤信号で止まると後方からサイレンを鳴らした救急車が追い越していきます。聖路加病院に到着すると、私を追い越していた救急車が患者を降ろしていました。そこにいた看護師さんらしき人に「ここにも4人います!」と声をかけました。

するとお乗せしたお一人が私に「ありがとう」と運賃を払おうとします。「いえ、いただけません」と断ったのですが「そういう訳にはいかないから」とおっしゃって手渡していただきました。その後、病院を出てすぐに別のお客さんを拾って霞ケ関とは離れた場所へ向かいました。そして、この霞ケ関の件が事故ではなくて「事件」らしいと知ったのは深夜のラジオからでした。

あれから26年経ちました。今の若い人々はこの事件を直接にはご存知ではないということです。私は現場にはいましたが健康被害にあった訳ではありません。それでもサリン事件は風化させてはならないと強く思います。

最後にこの事件でお亡くなりになられた14名の方々のご冥福をお祈りします。